LOGIN父から届いたメッセージを、美緒はしばらく開いたまま見つめていた。
『莉奈と亮介君の結婚式の日取りが決まった。姉として出席してほしい。』
短い文章だった。
日付も、そのあとに記されている。
約二か月後。
招待状は改めて送る、と続いていた。
美緒は新しく買ったマグカップを両手で包みながら、画面から目を離せなかった。
結婚式。
莉奈と亮介の。
頭では、いつか来る話だと分かっていた。
二人はすでに婚約を発表している。
父も柊木家も、このまま話を進めるつもりなのだろう。
それでも実際に日取りを知らされると、胸の奥に冷たいものが落ちた。
自分が五年間付き合った男。
結婚するのだと思って
第31話 夫が提示した「離婚時の財産」に、私はすぐ署名できませんでした 美緒が神代家での夕食から数日後、沙耶から連絡が入った。『例の夫婦財産契約、最終案ができました。今度こそ二人とも逃げないでください』 文面だけなら冗談に見えるが、沙耶の場合、半分ほど本気だろう。 結婚して間もない頃、征一郎に勧められて始めた夫婦財産契約の話し合いは、想像以上に時間がかかっていた。 蓮司の資産が複雑だから、というだけではない。 株式。 不動産。 資産管理会社。 信託。 美緒には名前を聞いても仕組みを理解するまで時間がかかるものがいくつもあった。 一方、美緒自身の資産はもっと単純だ。 預貯金。 少額の投資。 これから得る給与。 だからこそ、美緒は最初に思った。 別に難しい契約などいらないのではないか、と。 蓮司のものは蓮司のもの。 自分のものは自分のもの。 共同で使うお金だけ別口座にすればいい。 それで十分だと思っていた。 しかし沙耶は、最初の打ち合わせで真顔になった。「資産が少ない側ほど、簡単に考えない方がいいです」 その意味を、美緒はようやく少しずつ理解し始めていた。 ◇ 土曜の午前十時。 沙耶は分厚いファイルを抱えてレジデンスへやってきた。「お邪魔します」「今日は一人?」「今日はね。最後に確認するだけだから」「独立した弁護士さんの確認は?」「美緒さん側の先生から昨日戻ってきた。修正意見も反映済み」 沙耶
第29話 「机上の空論です」と、私の改善案は現場で突き返されました 教育担当者の負担を減らすための試行が始まって三日目、美緒は自分たちの案が早くも壁にぶつかっていることを知った。「神代さん、少しいいですか」 昼前、宿泊部のバックヤードで声をかけてきたのは、フロントの主任を務める森岡だった。 四十代前半の男性で、勤続十年以上。普段は穏やかだが、忙しい時間帯には若手スタッフが顔色を変えるほど指示が速い人物だ。「はい。何でしょう」「今回の教育担当者の業務削減についてです」 言葉は丁寧だった。 しかし、その表情を見た瞬間、美緒は良い報告ではないと分かった。「何か問題が出ていますか?」「出ています」 森岡は手にしていたシフト表を美緒へ差し出した。「率直に言います。今のやり方では現場が回りません」 胸が一瞬、強く打った。 やっぱり。 頭のどこかで、そんな声がする。 一か月試すと決めた。 まだ三日しか経っていない。 なのに、もう失敗したのかもしれない。「具体的に教えていただけますか」 美緒はシフト表を受け取った。「教育担当者の通常業務を一割減らしたでしょう」「はい」「その一割が消えたわけではありません」「もちろんです」「残った人間へ乗っています」 当然のことだった。 だが、想定していたより影響が早い。「昨日の夕方、チェックインが集中した時間帯に、教育担当を外した分のVIP到着対応が別のスタッフ二人へ寄りました。一人は新人に近い二年目。もう一人は電話対応まで抱えていた」「その結果は?
第28話 「人を減らせば利益が出る」――その数字の裏側を、私は知っていました 分析チームの初回打ち合わせで、新人教育担当者の残業時間が半年で平均二十八パーセント増えていると分かった時、美緒は真っ先に前のホテルを思い出した。 人を減らす。 一人あたりの仕事を増やす。 短期的には人件費率が下がる。 数字だけを見れば、改善に見える。 けれど余裕を失った現場では、教育が雑になり、引き継ぎが抜け、客への説明が短くなり、やがて経験者から辞めていく。 その流れを、美緒は一度見ている。 だからこそ、同じ結論へ飛びつきたくなかった。「まず、この二十八パーセントを疑った方がいいと思います」 美緒がそう言うと、向かいに座っていた料飲部主任の大森が眉を上げた。「疑う?」「数字が間違っているという意味ではなくて、平均だけで判断しない方がいいという意味です」 テーブルには、人事から追加で出された資料が広がっている。 宿泊部、料飲部、宴会部門。 新人教育担当者として登録されたスタッフの残業時間。 欠勤。 有給取得率。 異動希望。 そして退職者数。 相沢が横から資料をめくった。「部署別だと、宿泊部は三十五パーセント増ですね」「料飲は二十一」 大森が言う。「でも、うちは宴会が増えた時期と重なってるから、教育だけが原因ではないですよ」「そうですよね」 美緒はすぐにうなずいた。 以前の自分なら、自分の仮説を通すために「でも」と続けたかもしれない。 今は違う。「だから、教育担当かどうかだけじゃなくて、繁忙期
第27話 前の会社で無視された提案を、今度の職場は最後まで聞いてくれました 運営改善プロジェクトの初会議は、美緒がグランド・ルミエール東京へ入社してから一週間後に開かれた。 会議室へ向かう途中、美緒は何度も社員証を指先で触っていた。 緊張している時の癖なのだと、最近になって気づいた。 今日の議題は、直近半年で増えているスタッフの離職と、顧客満足度低下の相関について。 あまりにも前職で見てきた問題と似ている。 だからこそ、怖かった。 似ているからといって、同じではない。 ロイヤル・オルビス東京で起きていたことを、そのまま新しいホテルへ当てはめれば、それこそ経験者の思い込みになる。「神代さん」 後ろから呼ばれ、振り返る。 木村だった。「会議?」「はい」「緊張してますね」「分かります?」「社員証を壊しそうなくらい触ってるので」 美緒は慌てて手を離した。「そんなに?」「そこまでは。ただ、初参加でしょう」「はい」「何か言わなきゃと思わなくていいですよ」「え?」「運営改善って名前がつくと、初日から改善案を出さなきゃいけない気になる人がいるから」 見透かされたようで、美緒は少し笑った。「まさに今、それを考えてました」「まず聞いてください。このホテルが何を問題だと思ってるのか」「はい」「前のホテルではこうだった、は参考になります。でも、ここも同じだと決めるのは別」「分かりました」「それが分かってる顔ですね」「さっき自分にも言い聞かせてま
第26話 私を一番警戒していた先輩から、「助けてください」と言われました グランド・ルミエール東京で働き始めて五日目、美緒はようやく館内で迷わなくなってきた。 従業員用エレベーターの位置も、バックヤードからロビーへ出る最短ルートも、宿泊部の備品庫が見た目より奥行きのある妙な造りをしていることも覚えた。端末操作はまだ前職の癖が出るものの、木村に教わりながら一つずつ修正している。 客前に立つ時間も増えた。 初日に比べれば、周囲から向けられる好奇の視線も少なくなった気がする。 なくなったわけではない。 休憩室で入ると会話が一瞬止まることもあるし、必要以上に丁寧な言葉遣いをするスタッフもいる。 反対に、佐藤のように好奇心を隠さない人間もいる。 そして、最初から明確に美緒を警戒している人もいた。「神代さん、それはまだ触らなくていいです」 午前十一時過ぎ、ゲストリレーションデスクで声をかけてきたのは、相沢香織という女性だった。 三十四歳。 ゲストリレーション部門で六年働いているベテランで、木村に次いで現場をよく知っているらしい。 美緒が来る前からシニアスタッフ昇格の候補に名前が挙がっていたとも聞いた。 美緒は端末から手を離した。「すみません。今日のVIP到着一覧を確認しておこうと思って」「木村さんから指示されました?」「いいえ。でも午後からロビーに入るので、名前と注意事項くらいは把握しておいた方がいいかと」「必要な情報はその時に渡します」 言い方は丁寧だ。 けれど柔らかくはない。「分かりました」 美緒は素直に画面を閉じた。 相沢はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻る。 隣にいた宮下が小声で囁いた。
第25話 初出勤の日、私を待っていたのは歓迎だけではありませんでした グランド・ルミエール東京への初出勤の日、美緒は目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました。 まだ薄暗い寝室で天井を見上げ、最初に思ったのは、緊張している、ではなかった。 今日から、また働ける。 その事実だった。 ベッドから起き上がると、身体の奥に少し遅れて緊張が追いついてくる。前のホテルへ入社した時以来、七年ぶりの「初日」である。それだけでも落ち着かないのに、今の美緒には以前にはなかった肩書きまでついている。 神代グローバルホールディングスCEO、神代蓮司の妻。 昨日までなら、その肩書きを頭の隅へ押しやって出勤するつもりだった。 しかし、もうそれは無理だと分かっている。 婚姻は公表された。 新しい勤務先まで漏れ、ホテルには報道関係者から問い合わせも入っている。 知られているものを、知られていないふりはできない。 だからこそ、そこから先を自分で決めるしかなかった。 美緒は着替えを済ませ、リビングへ向かった。 キッチンにはすでに蓮司がいる。「おはようございます」「おはようございます」 返事をしながら、美緒は一瞬足を止めた。「……早くないですか?」「今日は美緒さんの初出勤なので」「それと蓮司さんが早起きするの、関係あります?」「朝食くらい一緒に食べたくて」 テーブルには、トーストとサラダ、ゆで卵、それにコーヒーが並んでいた。「ゆで卵」「失敗しにくいものを選びました」「学習しましたね」「かなり」 美緒は笑って椅子へ座る。







